1年: 2019年6月アーカイブ

 5月21日(火)、明日香方面へ、校外学習に出かけました。心配していた天候も晴れ間が見られ、充実した学習ができました。
【目的】
・明日香の歴史を肌で感じ、万葉の世界に思いをはせる。
・班行動を通して、仲間意識を深める。
・役割と責任を自覚し、協力し助けあう。
・公共のマナーを守る。
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 前夜の雨で心配された校外学習。朝の集合の時には曇天で小雨だったものの、明日香村では雨も上がり、次第に真っ青な空の下、活動が開始されました。明日香村は電線類地中化工事の関係で通行止めの箇所があったものの、万葉文化館をスタートに、甘樫丘、飛鳥寺、石舞台、亀石、犬養万葉記念館などを各班で効率よく回り、再集合場所の万葉文化館にはすべての班が時間内に戻ってくることができました。その中でも、B組5班がオリエンテーリングで第1位に、B組4班が第2位に、そしてA組4班が第3位なりました。また、万葉文化館では今話題の令和の出典などの説明を聞き、飛鳥時代の様子に触れることができました。
 班別活動から、普段あまり見ることのできない級友の長所をより多く見つけることができたのではないでしょうか。今回の活動を通して、学年としての絆をより強固にし、学校生活を送っていくエネルギーに変えていってもらいたいと思います。

 生徒感想文より(抜粋)
・明日香村に校外学習へ行ったことで、万葉集のことや、飛鳥寺、橘寺などの、歴史にふれることもできたし、A組B組も関わり合うことができたのでよかったです。B組の中でも絆が深まったし、班でも絆が深めることができました。
・みんなでお弁当を食べたり、バスの中でしゃべったりして、より友情が深まったと思う。そしてクイズはみんなで協力しながらできて良かった。

飛鳥寺                亀石
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万葉文化館・犬養万葉記念館
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190610008.jpg 私たちの住む五條市も、万葉集に詠まれている土地で、明日香同様、歴史の息づかいが感じられる所です。
 東中区域で詠まれた万葉集も、もう一度、味わってみましょう。




 

 

阿太人(あだひと)の 梁(やな)打ち渡す 瀬を早み
               心は思へど 直(ただ)に 逢はぬかも 
                          巻112699  作者未詳

 五條市の東部、吉野川沿いに広がる東阿田・西阿田・南阿田町一帯の地は、かつて『万葉集』に「安太(あだ)」と詠われた場所です。安太に住む人々は、川に杭(くい)を打ちこみ、そこに簀(す)を張って魚を獲る「梁(やな)」という漁をしていたようです。『日本書紀』にも神武天皇が東征するなかで出会った土着の民について、次のような記述があります。
 水(かは)に縁(そ)ひて西(にしのかた)に行きたまふに及(およ)びて、亦梁(や
 な)を作(う)ちて取魚(すなどり)する者(もの)有り。天皇問ひたまふ。対へて曰
 さく、「臣は是(こ)れ苞苴担(にへもつ)が子なり」とまうす。此則ち阿太(あだ)
 の養鸕部(うかひら)が始祖なり。
ここでもやはり安太に住む人々が梁を使って魚を獲っていたことがわかります。
 歌は、その安太の人が梁をうって漁をする吉野川の激流のように、と上三句までが比喩の表現となっています。下二句がこの歌の本意で、周囲の妨げによって逢うこともままならない秘めた恋心が詠まれています。
 『万葉集』にはこのような秘密の恋を詠んだものがいくつかあり、たとえば、「他辞(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み逢(あ)はざりき心あるごとな思ひわが背子(せこ)」(巻四の五三八)のように、噂が煩わしいから逢わなかっただけで浮気したと思わないでねといった歌や、「人(ひと)眼(め)多み逢はなくのみそ情(こころ)さへ妹を忘れてわが思はなくに」(巻四の七七〇)のように、人目が多いから逢わなかっただけで心まで忘れたわけではないよといった歌がみられます。
 家族や職場、仲間内にはナイショの交際。不安でもどかしい恋心は今も昔も変わりませんね。
(本文 万葉文化館 小倉 久美子)

                 平成278月号 県民だより奈良より

たまきはる 宇智うちの大野に 馬並なめて 朝踏ますらむ その草深野くさふかの
                     中皇命なかつすめらみこと  巻1‐4

 五條市の北宇智駅周辺は、かつて「宇智の大野」と呼ばれていた場所です。
 宇智の大野に馬を連ねて朝の野をお踏みになっておいでだろう、その草深い野を、と天皇の遊猟をことほいだ歌です。直前の長歌とともに、舒明(じょめい)天皇へ献呈された歌であることが『万葉集』に記されています。
 遊猟は、単なる遊びではなく、土地の霊力を得る重要な儀礼の一つでした。長歌(1三)では、「みとらしの 梓(あづさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり」という表現が中盤と最後に繰り返されて、独特のリズムを生んでいます。
 『源氏物語』などで、弓をはじいて音を鳴らすことが悪霊退散の呪術として描かれていることから、この歌の梓の弓の描写も、狩猟の道具としての弓であると同時に、呪具としての弓でもあったとみられています。

〈たまきはる〉

 「たまきはる」は、「内」や「命」ということばにかかるとみられます。一般に枕詞(まくらことば)と呼ばれている、古代の歌に特徴的な表現技法のひとつです。解釈には諸説がありますが、霊魂が極まるという意味ではなかったかといわれています。古代人にとって霊魂とは、人間の肉体の内にみなぎる永続性のあるものであり、その魂が極まるとは、生命力の充溢(じゅういつ)を意味したと考えられます。
 魂が極まる内(うち)―その宇智の大野、という音の連関から、この場所が内包する土地の勢いが表現されているようです。支配している地域や、猟場の動植物たちの生命力を詠むことは、天皇の治世(ちせい)を称えることでもありました。
 舒明天皇(在位六二九―六四一)にはじまり、飛鳥には歴代の天皇の宮が営まれました。舒明天皇の香久山からの国見の歌(1二)が、『万葉集』巻一巻頭の雄略天皇歌の次、万葉歌の実質的なはじまりを告げる位置に置かれ、続いて、今回取り上げた遊猟の際の献呈歌が載せられていることは、象徴的だといえます。舒明天皇と飛鳥や宇智の関わりの深さとその重要性がうかがわれます。

〈浮田(うきた)の社(もり)〉

 「大荒木(おほあらき)の 浮田の社の 標(しめ)にあらなくに」(11二八三九)と詠まれた社は、五條市内にある現在の荒木神社だと考えられています。「大荒木野」(7一三四九)と詠んだ歌もあり、周辺一帯は「大荒木」と呼ばれていたようです。
 「標」とは聖なる結界のしるしであり、現代でも「しめ縄」などという言い方があります。この歌は、その「標」をめぐらした神域のように、他人を寄せ付けずに年取ってしまうことを歎(なげ)いた恋の歌です。

                    平成252月号 県民だよりより


楽しいお弁当の時間・・・
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